十一月五日、函館五稜郭を占拠していた旧幕臣軍七百名は土方歳三指揮のもと、蝦夷地でも随一の城である松前城を攻めた。 籠城した藩士たちは、城の門前で大砲を放つとすぐに門を閉め、砲弾を装填した後にまた門を開いて弾を撃つといった戦法を取っていた。 確かに、城内の大砲は数も無く、弾込めの時に攻められるのが最も脆い。 「かたつむりみてぇだな」 「え? かたつむり、ですか?」 誰言うとなしに呟いた土方の一言に、隣で身をひそめていた鉄之助は尋ねた。 市村鉄之助は数えで十五。 京からずっと土方の小姓として側で雑務をこなしていた。 一緒に入隊した七つ上の実兄、辰之介は五兵衛新田で別れて以来消息も分からなかった。 「見てろよほら」 ドンと腹に響く音がした。 砲弾を放ってから、すぐさま大砲を転がして門の中に入り込む砲手たちの動きは、確かに角を触るとひっこむかたつむりに似ていた。 なるほどと思った鉄之助は小さく噴き出した。 そんな小姓をよそに、土方は少し考え込む様子をしてから、すぐに小銃隊の小隊長を呼んだ。 「次に門が閉まった瞬間、銃の上手いやつを二十人ほど門の左右に忍ばせろ」 「突入させるのですか?」 「いや、再度門が開いた瞬間、左右から敵の砲撃手を狙わせるんだ。大砲を占拠しちまえばこっちのもんだろ」 「なるほど、すぐ手配します」 小隊長は素早く指示を回した。 やがて門が開き、大砲が押し出された。 その瞬間、左右に潜んでいた伏兵の銃が砲手たちに向けて一斉に火を噴いた。 パンパンという銃声の後、砲手が崩れるように倒れたのが見えた。 土方は立ち上がって剣を抜き掲げた。 「突撃だ!!」 それから数時間で城内の戦いは決した。 敗れた松前藩士たちは江差に方面に逃亡して行った。 落ち延びる際に火を放ち、城下は炎に包まれた。 敵の手に渡す前に燃やしてしまうのが古来からの戦法であった。 数日後、陸軍は松前藩士追撃のため江差方面に進軍した。 箱館から松前の港に援軍に来ていた榎本釜次郎を乗せた軍艦開陽丸も、海路江差へと向かった。 「開陽も持っていくのか?」 「ああ、開陽丸は実戦も少ない。大砲訓練も兼ねてといったところだがね」 てっきり、軍艦はそのまま箱館に戻すと思っていた土方は意外な顔をしたが、榎本には考えあってのことらしい。 確かに開陽は正月の阿波沖での海戦以来、戦闘らしい場面に居合わせたことはなかったはずだった。 海路と陸路に分かれ、旧幕府軍は松前から江差へと向かった。 先に江差に到着したのは、海路を進んだ開陽だった。 十一月十五日のまだ朝の陽が出る前のことだ。 白んだまるい月が黎明の明かりに溶け始めた頃、榎本は砲台のあった鴎島に向け大砲を撃った。 しかし、砲台に人の気配は無かった。 「松前藩は江差方面での建て直しを計ったのではなかったのか……」 開陽丸を沖合に停泊させると、榎本は小舟に分乗して上陸との指示を出した。 陸に上がってみると、江差の町は既にもぬけの殻となっていた。 戦わずして江差の町を占拠した榎本たちは、すぐに陸路を北上する土方たちに伝令を飛ばした。 ここに陣を張り、陸戦隊の到着を待って箱館に戻るつもりだった。 日が傾き、夕刻近くになると灰色の雲が天を覆った。 「時化るかな」 鼠色の空を見上げた榎本は小声でそう呟いた。 開陽に乗っていた幕兵たちは、かつて上席軍艦役を勤めた中島三郎助らに留守居を任せ、上陸して江差の旅館「能登屋」に陣を置いた。 さて、江差には日本海側特有の強風が吹く。 冬の間北北西から西北西に吹きつける強い季節風を、浜の漁師たちは「タバ風」と呼んだ。 この晩も強い風が吹き荒れて、海は大時化状態になった。 ドーン、ドーン、という低く響く音で榎本は目を覚ました。 戦の疲れに服を着たまま軽く寝入ってしまったらしい。 何事かと思い、慌てて外に出てみれば、ちょうど機関士の一人がものすごい勢いで走ってくるのが見えた。 機関士は息を切らせて転がるように榎本の前に倒れた。 「一体何事だ」 「榎本さん、船が……開陽丸が!」 「開陽が、どうしたんだ?」 「碇を取られて、波で傾いてっ」 弾かれたように、榎本は浜の見える高台へと走り出した。 幕府は開国と共に国の海防力の強化の必要性を悟り、海軍創設および強力な軍艦の保持を図った。 開陽丸は江戸幕府がオランダに発注した当時の日本では最新鋭の軍艦であった。 榎本はこの軍艦の発注のために他の留学生と共にはるばるオランダに渡り、航海法を学んだのだ。 そして、五年をかけてこの軍艦の完成と共に日本へと帰国したのである。 開陽丸は榎本にとって、開陽丸はその生涯を賭けた――まさに半身ともいえる存在だった。 高台から海の方向を見れば、先ほどから響いている轟音は、開陽丸が海面に向かって砲弾を撃っている音だった。 砲撃の反動で体勢を立て直し持ちこたえようとしているのだろう。 祈るような気持ちで目を凝らしたけれど、暗闇の中何も見ることは出来ず、ただ強い風と砲弾の音が響くのみだった。 翌朝、空が白んで来た頃に、土方隊は急ぎ足で江差に入った。 「昨日の伝令は確かに、無血で江差を抑えたと言っていたが……」 昨夜から砲撃の音が響いていたと地元の住民から話を聞いて、土方は急いで駆けつけた。 しかし、そこには戦闘は無かった。 海が見える小高い斜面には、ただ地に膝を付き呆然と海を見つめる榎本の姿があった。 「開陽丸が……」 土方と共に立ち止まった、鉄之助の目には江差の浜が見えた。 明け方の海には白い波が立っていた。 そこには斜めに傾いた開陽丸が無惨にも船底を晒していた。 座礁したのだ。 「榎本さん……」 呼びかけたものの、あまりの衝撃に土方は続く言葉が出てこなかった。 ぐっと何かを堪えるように顔を歪めると、力任せに傍らにあった松の木に拳を叩きつけた。 鉄之助の目に映ったものは、悲しげに震える榎本の背中と、 悔しさに震える土方の背、 そして、ここまで自分たちを導いてくれた大切な旗印、開陽の最期の姿だった。 -終- |