京 河原町




  「えっくしゅっ!」

盛大なくしゃみが響いたのは河原町通り沿いの一軒の醤油屋の土蔵からだった。

「こんな日があたらんち所にいたら凍えちまうぜよ」

坂本龍馬はここ数日の寒さで、風邪をひいていたようで、始終鼻をぐすぐす言わせていた。

「峯ぇ、わしゃぁ母屋に移るきに、火鉢なおしといちくれ」
「でも、坂本先生。こっちに居ないといけないんじゃ?」
「誰かに命狙われる前に、このままだと凍死じゃき」

峯と呼ばれた少年――峯吉がそう尋ねたものの、龍馬は、構わず黒羽織の上にかいまきを重ねて着込んだまま、階下への梯子を降りる。
その姿を見下ろしながら、峯吉は一つ息を付いてから言われたとおり火鉢の始末を始めた。



土蔵から出てきた龍馬は母屋の二階の八畳間に居た。

「坂本先生、中岡さんが来ましたよ」

そう、峯吉が二階に向かって呼びかけたのはちょうど日が西に沈む頃だった。
近江屋を訪れた中岡慎太郎は、峯吉に先導されて二階の梯子を登ると、奥の八畳間に通された。
差料を取って、屏風の後ろに置きながら、かいまきを着込んで鼻水を飛ばしながら応対する龍馬に笑い顔を向けた。

「なんだ、醤油蔵の方におるんじゃなかったがか」
「いやのう、どうにも醤油臭うて敵わないきに、さっきこっちに移ったんじゃ」

二階には同じ土佐藩の岡本建三郎が先客で居た。
火鉢を囲んであたりながら、しばらくは三人で談笑していた気配があった。



とっぷり日も暮れた頃、龍馬の声が聞こえた。

「峯ぇ、峯おるか」
「はあい」

峯吉が梯子の下で返事すると、二階からまた声が響いた。

「鍋にしよんきに、軍鶏(しゃも)買うて来てくれんかの」
「へい」

梯子から頭だけを覗かせて峯吉が答えた。
その時すっと岡本が立ち上がった。

「じゃあ、わしはそろそろ戻ります」
「なんじゃあ、おんしも食っていけばいいがやき」
「残念ですが、夜番なんですよ」

岡本は使いを頼まれた峯吉と一緒に近江屋を出た。
東の空にはまあるい満月が覗いていた。



階下にいた藤吉という相撲取り上がりの従者に酒のお代わりを頼んだ龍馬は、梯子のあがりから徳利をさげて八畳間へと戻った。

「やっぱ、寒いときは軍鶏鍋に限るぜよ……っぐしゅ!」
「はよう寝ちょったが方がえいがやき?」

火鉢にあたりながら、また大きなくしゃみをした龍馬をからかうように中岡は笑った。

その時、梯子が軋む音が聞こえた。
峯吉が帰ったのかと思って視線を向けた先には、階下の藤吉が覗いていた。

「松代藩の方がいらっしゃって、先生にご相談があるそうなのですが」
「んう、あがってもらえ」

鼻声でそう答えた後に、階下でどうっと床板に倒れるような音があった。
梯子を踏み外しでもしたのだろう。
ちっと舌打ちを一つしてから、

「藤吉、ほたえなやぁ(うるさいぞ)」

と階下に言ってから、中岡に向けて笑った。

「いられ(落ち着きの無い)やつじゃきに」



しばらくしてから、藤吉が言った見慣れぬ侍が梯子をあがってきた。
数は三人。
陣笠をかぶったままの顔は、行燈あかりで良くは見えなかった。

「才谷先生でいらっしゃるか」
「そうじゃが……」

何か、と龍馬が言い終わる前に目の前に白刃がひらめいた。
刃は僅かに龍馬の額を掠めた。

「っ!」

反射的に胸の短筒を握った。
引き金に指がかからないうちに、帰ってきた刀を銃身で受けた。
一撃はまぬがれたものの、握りが甘かった拳銃は飛ばされて宙に舞った。

同時に中岡が動いていた。
屏風の後ろへと仕舞った凪刀に手を伸ばすものの、別の男の刃が後頭部を斬りつけた。

「ぐあっ!」
「慎太ぁっ!」

叫びながら、龍馬は背後の床の間にあった刀掛けへと右手を伸ばした。
その背に袈裟懸けに刀が入った。

「うっ」

右肩から左腰までを刺客の刀は凪いだ。
けれど、厚い綿入れはその衝撃を多分に和らげた。
愛刀「吉行」を手にとった龍馬は振り向きざま、上段から振り下ろされた太刀筋を鞘で受け止めた。

鋭い刃先は「吉行」の鞘を削った。
しのぎを削る体勢で鞘と刃は組み合ったまま押し合っていた。

「にゃ……ろっ」
「……こなくそっ!」

だが、体勢にも力にも刺客の方に分があったようだ。
じりじりと削られた鞘は、削り押されてから刺客は一息に力を込めた。
刃は龍馬の額を強く打った。

「ぐあっ!」

龍馬の力が緩んだところを、刺客は一気に刀を引いた。
額に食い込んだ刃は深く肉をえぐり骨を割った。
斬りおろすと一気に血が吹いた。





「慎太……生きとるか」
「しっかりするんじゃ……龍馬」
「わしはもう駄目じゃ。脳をやられたきに」

乱闘で倒れた木戸からは月明かりが差し込んでいた。
荒らされた部屋の中には傷ついた中岡と龍馬が静かに横たわっていた。






軍鶏の入った袋を抱え、峯吉は小走りで満月を仰いだ。
鍋に入れる野菜は何が残っていたのだろうかと考えながら、月明かりの中息を弾ませて近江屋への道を駆けていった。





-終-



2012.11.15
慶応三年十一月十五日
近江屋事件

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